東京アスリート認定選手・インタビュー(16)竹田隆選手(足立区・港区) パラ卓球 (2017/3/30)

~オリンピック・パラリンピックを目指すアスリートを応援~
【東京アスリート認定選手・インタビュー】


東京都では、東京のアスリートが、オリンピック・パラリンピックをはじめとした国際舞台で活躍できるよう、競技力向上に向けた支援を実施するとともに、社会全体でオリンピック・パラリンピックの気運を盛り上げるため、「東京アスリート認定制度」を創設しました。

このページでは、認定選手の皆さんに「スポーツを通して自分を成長させ、スポーツと社会のよりよい関係を考えていこう」というテーマで、インタビューをしていきます。

第16回 竹田隆選手(足立区・港区)パラ卓球
卓球のおかげで、今の自分がある
大好きなこの競技で恩返しがしたい

竹田隆選手の写真

たけだ・たかし 1980年9月21日、秋田県生まれ。(株)トラストシステム所属。インチョン2014アジアパラ競技大会、団体2位、個人3位(2014)。スロバキアオープン大会団体2位(2015)。スロベニアオープン大会団体3位(2015)。FIDジャパン・チャンピオンシップ卓球大会(2015)、個人3位、ダブルス1位(2015)。ダブルスは4年連続1位。
選手詳細を見る


遊びのつもりで始めた卓球で、全国大会へ

パラリンピックにおいて、卓球は障害によって、11のクラスに分けられている。「肢体不自由者」の部は、車いす、立位でそれぞれ5つのカテゴリーがあり、「知的障害者」の部は「クラス11」というカテゴリーに分けられる。2012年のロンドンパラリンピックのときに、卓球の「クラス11」は3大会ぶりに正式種目となった。
竹田隆選手は秋田県に生まれ、5歳のときに近所の児童館の学童保育で、友達といっしょに卓球を始めた。ラリーが続くのが楽しく、最初は遊び感覚だった。周囲に強い選手がいなかったこともあり、6歳で秋田県代表として全日本卓球選手権大会(カブの部)に出場。7歳のころ東京に引っ越してからも、近所の児童館で子供たちやお年寄りたちといっしょに白球を追う日々が続いた。シェークハンドのラケットが主流の卓球界であったが、竹田選手がペンホルダーと呼ばれるラケットを使うようになったのも、児童館に置いてあったことがきっかけだったという。卓球が好きで、ずっと練習を重ねていった結果、高校1年になると、障害者の大会である「ゆうあいピック北海道大会」で優勝を果たした。

競技中の写真

しかし、ジュニアの大会を経て、シニアの年齢層も交えた大会に出場するようになると、シドニーパラリンピックに出場したベテランの選手が、竹田選手の前に立ちふさがった。「とにかく強い人で、やってもやっても勝てなくて、試合でその選手に当たると負けてしまうということが、繰り返されました。特にサーブがうまいんです。でもその選手がいたから、ラケットのラバーの特徴について考えたり、どうやったら勝てるだろうと、練習を工夫することができて、今までとれなかったレシーブもとれるようになって、自分も強くなれたと思います」。そうして竹田選手が23歳のときに、ついにそのベテラン選手に勝ち、FIDジャパン・チャンピォンシップ大会で優勝することができた。


日本代表として、アジアや世界の舞台で活躍

国内トップクラスになり、日本代表として、アジアで行われる大会に出場するようになった竹田選手。2002年に韓国で行われたフェスピック釜山大会の男子シングルスで優勝。知的障害者の部では、香港や韓国が日本のライバルだったが、その大会では日本から出場した男子の3選手が表彰台を独占することに。「表彰式のときに、3つの日の丸が並んで、掲揚されていくのを見たのは、あのときが最初で最後でしたが、みんなで勝ててとても嬉しかったのを覚えています」。
アジアの大会で優勝し、今度は世界選手権やパラリンピックも夢見るようになった。翌年の2003年のパラ卓球の世界選手権メキシコ大会では、男子団体、個人のシングルスでも決勝進出。惜しくも優勝は逃したものの、世界で戦える手ごたえを得ることができて、意識も高まっていった。とはいえ、当時はまだ海外遠征などすべて行くことは経済的にも厳しく、限られた助成金の中で精一杯の努力をしていたという。

競技中の写真

アテネパラリンピックのときは、卓球の「クラス11」はロンドンパラリンピックの実施に向けての、テスト大会として行われ、竹田選手も代表選手としてではなく、テスト大会の一選手として参加した。とはいえ、試合には世界選手権でも戦っているような海外の強豪選手も来ており、準決勝では当時の世界ランク3位(竹田選手は当時、世界ランク2位)のポーランドの選手と対戦。フルセットの接戦の末、このときは苦杯をなめた。竹田選手の卓球は国内外の選手に研究され、対策を練られるようになっていた。師事していたコーチの指導を受け、竹田選手も新しいスキルを身につけ、さらなる進化が必要になった。
2010年にはアジアパラ競技会が開催されるようになり、竹田選手は、2014年の第2回アジアパラ競技大会・仁川大会に日本代表として出場。団体で銀メダル、個人では銅メダルを獲得。2年前のロンドンパラリンピックの代表の座は逃したものの、様々な競技といっしょに戦うアジアパラ競技会を体験すると、ますますパラリンピックへの思いは募った。


みんなの夢を乗せて、東京パラリンピックに出たい

子どものころ、近所の友達と遊びで始めた卓球も、気が付けば国内外のトップクラスで戦うほどに成長していた。
「卓球と出合ったおかげで、いろんな国に行け、いろんな人と出会えて、本当に僕はしあわせだと思います。卓球が好きで、こうしてたくさんの方の支えがあって、今も続けていられることに、心から感謝しています。自分より強いと言われている選手に勝てたり、コーチからいろいろな技術を教えてもらって、今までできなかったことができるようになったり。海外の選手とライバルであり、友達にもなれました。もう、いいことしかありません」。
竹田選手は粘り強いプレーができ、逆転で勝ち切ることのできるメンタルも強みだと言われている。取材のときには、プレースタイルが好きな選手の話、ラケットのラバーの話、戦術の話など、イキイキと語ってくれた。
「リオデジャネイロパラリンピックも出られなくて、かなり悔しかったですけど、卓球を辞めたいと思ったことは、一度もありません。まだまだやれると思っていますし、とにかく好きなのです。2大会分のくやしさを、東京2020パラリンピックに向けます。やっぱり東京で行われるパラリンピックは特別な夢の舞台です。子供のころからいっしょに卓球をしていた足立区の人たちや、コーチや会社の人たち、みんな、僕が頑張ることで喜んでくれると思うので。そして出るからには、メダルもとりたい。それが一番の恩返しになると思います」。

競技中の写真

パラ卓球の世界でも、年々、用具は変化している。今はその対応に手いっぱいだというが、コーチの指導の下、変化に慣れ、ベテランらしい経験を生かして、一年一年結果を出していきたいと、意欲をかき立てている。新しい技術を習得するには、健常者以上に何度も繰り返し、地道に地道に覚えていかなくてはならない。
「練習は好きなのでいいのですけど、困っているのが、食事ですね。一人暮らしなので、自分で用意しなくてはいけないんですが、毎日21時過ぎまで練習して、帰りにスーパー寄って、家に帰ると疲れて料理ができないこともあって。卓球の技術練習だけでなくて、フィジカルや栄養もしっかり取り組んでいかないと。毎日スーパーで売っているお弁当ばかりじゃ、ダメですからね」。
卓球があったから、今の自分がある。竹田選手は支えてくれているみんなの夢を乗せて、今日も黙々と練習場に通っている。


パラ卓球ってどんな競技?

パラ卓球競技は、車いすや腕の切断などの肢体不自由者や、知的障害者など、障害の程度や運動機能に応じて、クラスが分けられ、そのクラスごとに競技が行われる。競技は、国際卓球連盟(ITTF)のルールに基づいているが、一部のルールはクラスによって変更されている。

競技内容と歴史に関しては、東京都オリンピック・パラリンピック準備局の公式サイト参照。
http://www.2020games.metro.tokyo.jp/taikaijyunbi/taikai/syumoku/games-paralympic/p_table_tennis/index.html


【スポーツを通して身に着けられるライフスキル】

新しい技術を習得するために、コーチらとしっかりとしたコミュニケーションをとり、根気強く集中して練習に取り組むことが求められる。生活の真ん中に卓球があることで、自分の進むべき目標が明確になり、いろいろな人の協力も得ながら、応援されて強くなっていく。いつも明るい、ムードメーカーであり、後輩選手たちの良きアドバイザーとして、チームを引っ張ることもできる。